Ron Fletcher 1921-2011

L.ATimesより

西海岸に初めてピラティス スタジオを開いた、ロン・フレッチャーが90歳で死去

ロン・フレッチャーは1940年代にマーサ グラハムのダンスの生徒だった時、NYでその考案者からエクササイズのシステムを学んだ。1970年代、彼のビバリーヒルズのスタジオはハリウッドの著名人たちを引きつけた。

2011年12月11日 エレイン ウー

ロン・フレッチャー氏がテキサス州ストーンウェルの自宅で火曜日に死去した。90歳だった。元ダンサーでコレオグラファーでもあった同氏は1972年、西海岸で初めてのスタジオを開きピラティスのエクササイズ・システムの普及に貢献した。

ジョセフとクラーラ ピラティス夫妻の教えを元にフレッチャーが発展させたエクササイズメソッドのインストラクターを養成するフレッチャー ピラティスのディレクターであるキリヤ セービンによると死因はうっ血性心不全だった。

40年前ピラティスメソッドが初めて教えられたNY以外ではその類い稀なるエクササイズのプログラムを聞いたことがある人はほとんどいなかった。それは奇妙な見かけのマシンとヨガと美容体操のストレッチに近いうごきを含んでいた。

今日では何百万人もの人々が世界中でピラティスを行っている。この人気のいくらかはフレッチャーのビバリーヒルズのスタジオの周りでセレブリティたちがしたうわさ話のせいだといえる。ウィルシャー大通りとロデオドライブの角の高級サロンの上にあったそのスタジオは1970年代のハリウッドの著名人たちを引きつけた。その中にはキャンディス バーゲン、アリ マクッロー、ダイアン キャノン、キャサリン ロス、バーバラ ストライザンド、ラクエル ウェルチ、シェールなどもいた。

当時カリフォルニア州知事夫人であったナンシー レーガンさえもフレッチャーとのかしましいおしゃべりに加わるためにひょっこり立ち寄ることがあった。1940年代の女優時代から彼とは知り合いだった。

「そこでは全ての名の知れた俳優や女優と会ったわ、いつだって。」とマックローは先週のインタビューで想起した。「楽しかったわ。這いつくばって言ったものだわ『ああ神様、この1時間ちゃんと運動しなくては』…でもずーっと笑ってたわ、なぜならロンが…ヒステリックだったから。」

ピラティス界では彼はパイオニアと目された。彼はそのフィットネスのプログラムを新しく、時には物議をかもす方向へと導き発展させた。立った状態で行うエクササイズ、彼の初期のころにダンスアイコン・マーサグラハムから学んだことに由来するフロアワーク、そしてタオルを使っておこなう上半身のワークなどである。

「私たちは彼をエルダー ティーチャーとして崇めているんだ」と話すのは非営利に国際的な養成コースのスタンダードを設定するピラティス メソッド アライアンスの共同創設者の一人であるケビン ボーエンだ。「彼はロスアンジェルスで初めてのスタジオを開いた・・・そしてすぐに世間に影響を与えた。」

“エルダー”とはピラティス夫妻から学んだ少数の核となるインストラクターのことだ。1920年代にドイツから移民した夫妻はニューヨークにスタジオを開設し、怪我をしたダンサーの多くを引きよせた。フレッチャーもその一人だった。1940年代の終わりグラハムの生徒だったフレッチャーは膝の痛みを治すためにピラティス夫妻に助けを求めた。

初めてスタジオに踏み入れたときジョセフがピラティス ワークのために発明した奇妙な器具を見て彼はもう少しで踵を返して立ち去るところだった。

「中世の拷問部屋みたいだった」とフレッチャーは2003年のアレンタウン モーニングコール紙(ペンシルベニア州のローカル新聞)のインタビューで語った。「でも1時間で自分が正しい場所にいるとわかったよ」彼はエクササイズを続けた、それは体をストレッチし、鍛え、コントロールするために頭を使うことを強調し、体の中心の腹筋群をとりわけ鍛えた。フレッチャーは手術をせずに膝を治した。

1921年5月29日、ミズーリ州のドッグタウンでアイルランドとソークインディアンの家系に生まれ、フレッチャーはその町で質素な環境で育った。第二次世界大戦後、ニューヨークのサックスフィフスアベニューの広告部で働いていた彼は、グラハムのカンパニーの公演を観て自分もそこに入りたいと決心した。正式なダンスの訓練を受けたことがないことに臆せず、彼は3週間の間毎日彼女のスタジオを訪れたが受付を通してもらえなかった。

ある日ついに、その厄介な若者のことが、モダンダンス界のエレガントな大御所の知る所となったのである。いくつか質問をして彼の優雅な動きを見た後、彼女は彼が自分のクラスを受けることに同意した。

彼はグラハムと一緒に仕事をした。1946年のメアリー・マーティン主演のブロードウエイミュージカル「ザ・リュートソング」(The Lute Song)にキャストの一人として参加したのがダンサーと振付師としての彼のキャリアの始まりだった。

彼はアイスカペーズ(全米最大のアイスショー)のショーの演出を13年に渡って行ったが、それは飲酒問題が原因で終わった。彼のいうところの「それまでで最悪の深酒の日々」の間、1965年アイスカペーズのマジソンスクエアガーデンでのオープニングをすっぽかし、解雇された。2年後彼はアルコール依存症更生の会に入った。

立ち直る間、彼はピラティスに戻った。1967年ジョセフの死後はクラーラから綿密な指導を受けた。彼はクラーラが次に何を仕事とするべきかを指し示してくれたという。

彼女の賛成を得て、彼はビバリーヒルズにスタジオを開いたが、わざとあまり宣伝をしなかった。それがかえってオーラとなって人々を引きつけた。最初の顧客はハリウッドのプロデューサーと結婚したジャーナリストで後にベストセラー小説「スクループルズ」を書いたジュディス・クランツだった。

ロンは彼女に初めてあったときゲイであること、アルコール依存症から立ち直ったことアイルランド系とネイティブアメリカンの混血の血筋であることなどをユーモア混じりに話した。彼女は後に「すぐに私の心を掴んだわ」と書いている。

「彼はウルトラチャーミングだった。」とクランツは先週のインタビューで思い出を語った。彼女は今も特注のピンク色の革張りのピラティスマシンで練習をしていると言う。

2000年に、あるスタジオ経営者の行ったPilatesという名前の商標登録が連邦裁判官の判決により無効となった後は、特にピラティスの教室が急激に増えた。それにつれてスタンダードが落ちていくことにフレッチャーは愚痴をこぼした。そしてその一時的な流行がおわる事を願った。彼の不満の一つは、人々がこのワークを“pul-LAH-tees”と呼ぶことだった。彼は“pul-LAH-tis”と発音するように主張した。

20年ほど前、彼はスタジオをやめ、テキサスへ引っ越した。しかしワークショップを行うために世界中を旅行する事は続けた。彼の教えた最後のクラスはツーソンで5月(2011年)に行われた彼の90歳の誕生日のお祝いの時だった。

彼の長年のパートナー、ジョン・バトルズは一年前に亡くなった。ロンの異母妹フラン・ヘレラはロス・アンジェルスに住んでいる。

原文(英語)はこちらから