Ron Fletcher 1921-2011

ロン・フレッチャー

1921年5月29日−2011年12月6日
ピラティス界はロン・フレッチャーの死によって明確なヴィジョンと洞察力を持ち合わせたすばらしい人物の一人を失った。
1921年アーカンサス州とミズーリ州の州境にあるドッグタウンという小さな町に生まれる。ロンは小さい頃から遥か彼方を見据えていた。10代後半でニューヨークの光を求めて(そして仕事の契約も) 田舎の南部を後にした。ほんの少しの正規教育をうけただけで、少しの金と使い古しのスーツケース、そして夢いっぱいの心以外は何も持っていなかった。
はじめに彼は広告文を書く仕事を見つけ、そして臨時の仕事もこなしていた。しかし、マーサ・グラハムのダンスコンサートを見に行ったことが彼の人生の軌道を変え、一つ目の天職であるダンスへと導くことになった。正式なダンスのトレーニングの経験はゼロだったが、それに匹敵するだけの確かな才能と大胆さ、そして決意をもってロンは不屈のマーサ・グラハムの承認を勝ち取ることができた。彼女のダンスカンパニーに受け入れられたのだ。
彼女とともに仕事をし、そして後に非常にすばらしい振付師であるエイチ・ニムラとも一緒に仕事をした。ロンは彼の人生において大きな創造的影響を受けたのはこの2人からだと認めていた。この時期、しつこい膝の痛みが彼を3番目に影響を与えた人物たち、ジョセフとクラーラ・ピラティスのもとへと導いた。
エンターテーメント業界の最高レベルで30年に及ぶプロとしての輝かしいキャリアの間にはブロードウェイの主要な作品やハリウッド映画、インターナショナル・アイス・カペーズ、そしてナイトクラブやキャバレーのためにシカゴからパリ、ニューオリンズへと振り付けをして回った。ジョセフとクラーラ・ピラティスとのワークはロンが毎年帰ってくるたびにコンスタントに続いた。仕事で苦労している時やエンターテーメント業界の栄枯盛衰の間も、また私生活におけるアルコール依存症克服の強烈な葛藤の間もロン・フレッチャーはピラティス夫妻に習うことを続けた。彼らは教師であり良き助言者であったし、彼は夫妻の弟子であり被保護者であった。1968年から1971年にかけて、ジョセフ・ピラティスの死後、ロンはクラーラ・ピラティスに学んだ。残りの人生において彼をピラティス・メソッドの発展、進化そして普及に従事させるもととなる考えを練り始めたのはこの時だった。
1971年、ロンは大がかりな引っ越しをしてピラティスを良い状態で存続させ世界に広めるという信頼を得てカリフォルニア、ビバリーヒルズに西海岸で初めてのピラティススタジオを開いた。すると彼は地方紙や全国紙にフィットネス・グルとして迎えられ、スタジオのオープンに際しての世間の注目は全く驚異的だった。1978年、彼は大絶賛されて今や有名な彼の本、「エブリボディ イズ ビューティフル」を出版した。 そしてクラーラ・ピラティスにすすめられたように、彼はピラティス・メソッドを発展させ続け、パーカッシブ・ブリージング、フレッチャー・タオルワーク、フロアワーク、そしてバーワークのような革命的なコンセプトを付加していった。
2003年、ロンは彼の独自の視点からのピラティス・メソッドの存続のためにできた包括的なカリキュラムと学校、
ザ・ロン・フレッチャー・プログラム・オブ・スタディを承認し裏書きした。プログラム・オブ・スタディは2007年に正規の学校として州の認可を受け、現在はアメリカ国内に5つのキャンパスがあり、世界8カ国にもキャンパスがある。
ロン・フレッチャーはもの惜しみしない、気鋭の教師であり、実践的な指導者であり、天賦の才にライオンの心、そして天啓の高次の力の恩寵に独特な形で導かれたマスター・ティーチャーだった。他者から愛されたように、彼も深い愛を返した。彼の澄んだ青い瞳は煌めくことをやめず、彼の冴えた頭は彼に失敗させることがなく、最後の最後まで彼の心は機敏で明確だった。私たちは彼を最も良く知り、愛したものとして、深く悲しみ、彼を懐かしく思うと同時に彼の冥福を祈るものである。

追悼会は2012年5月5日、アリゾナ州ツーソンにて行われました。動物を愛してやまなかったロンの思い出に、あなたのお好きな動物慈善団体や活動に寄付をしていただければ故人も喜ぶ事でしょう。